町屋

住み続けられた町屋


都市型の日本の伝統的住居のことを町屋という。その敷地はほぼ例外なく、いわゆるウナギの寝床状の、間口に対して奥に極端に長い形状である。これは、前面道路に接する長さに比例して課税されていたためであり、そこに建つ町屋は、この特殊な敷地形状に強く規定された住居形式を持つこととなる。
筆者は以前、増改築を繰り返しながら現在も住み続けられている町屋に興味を持ち、増改築の経緯と、各段階における住まわれ方についてヒアリングを行ったことがある。伝統的な住居に生活の近代化がどのような変容をもたらしたかを知るためであり、さらに言えば、住むことの本質を体現するこの種の建築に、建築家は如何に関われるのかという獏とした問いを持ったからである。しかし後者は、論考で審らかにするというより、日々の創作の中で可能性を見出すべきものであろう。ここでは一軒の町屋を取り上げ、できる限り他の事例にも見られる一般的な特性を拾い出し、初期の構成と変容の概要を紹介する。 。


上と下の線形空間


吉川家は奈良県五條に江戸中期に建てられた。ヒアリングによって遡れるのは昭和初期までであったが、その間、形状が変わるものだけで13回の増改築を行い、各工事の完了日と概要が建物の各部に記録されていた。
一般に町屋は、30~40cmの高さに床が持ち上げられた畳または板敷きの部分と、<とおり>(前面道路)と同じレベルで奥へ細長く続く土間からなる。建物の間口が狭い場合、畳/板の部分は奥へ向かって1列に並ぶのみであるが、間口が広くなると2列、3列と増えてゆく。土間にも、低く仮設的な板敷きが設けられることもある。
昭和初期の吉川家は間口が五間(けん)で、正面に向かって左の三間が畳/板敷きであり、右の二間が土間/低い板敷きである。細長い敷地が、さらに細長く二分されている。双方の奥にある厠が、<うえ/したのべんじょ>と呼び分けられていたことから、この二つの線形空間を上/下の系と呼んでおく。
<たべるところ>は高い床の板敷きだが、<ざしき>と壁で分断されているため下の系と考える。中央の<さんじょう>は床仕上とレベルから判断すると上の系であるが、土間との間の建具が透明なガラス障子で、視覚的には下の系に繋がるため、両義的である。下の系の奥には2階が乗っているが、<ざしき>からのみアクセス可能であるので上の系の延長と考えられる。上下の系はそれぞれ、とおりにおいてのみ外部と接するため、ともに強い一方向性を持つ。上下の境界は、とおりから順に、レベル差のみ、レベル差とガラス障子、土壁、板壁と坪庭、となっており、通りから奥へ行くほど互いに独立性が高くなる。


格式の勾配


町屋のほとんどは商家である。吉川家も昭和19年まで金物屋を営んでいた。<みせ>および<しもみせ>が商売のためのスペースである。とおりに面する部分はすべて板戸で、昼間は全開された。昭和初期は、<ひいや>は使用人が寝泊りし、<あらいば>は洗濯の他、商品の簡単な加工なども行われた。就寝の場は年齢の順に<ざしき>、<なかのま>である。冠婚葬祭や、賓客の接待は<ざしき>で、披露宴や通夜ふるまいは<にかい>で行った。友人や隣人は<さんじょう>に通す。
以上から、上の系が接客空間、下の系が作業空間であることがわかる。上の系の奥には冠婚葬祭以外に使われない<にかい>と、就寝以外には来賓時にのみ使われる<ざしき>があり、奥ほど特別な場面でしか用いられない格式の高い場所となる。
一方の下の系は、臭いの出る厠、騒音の出る作業場、身分の低い者の粗末な居場所などが並び、奥ほど仕上げが簡素になり、ラフで粗末な格式の低い場となってゆく。
強い一方向性を持つ2つの系は、空間の奥行きに従い、格式がより高い、より低いという全く逆の価値を内包しながら並列していた。先に触れた奥へゆくほど独立性が高くなる空間形態がこれを可能にしている。比喩的にいえば町屋は、とおりから始まり、上と下へそれぞれ向かう格式の勾配空間であった。 。


空間の均質化


個々の増改築は、個別の具体的な要請に答えるものである。設備の近代化、車社会への順応など社会全体の生活の変化によるものもあれば、家族の増減や稼業の変更などの内的な変化によるものなど、様々である。しかし二つの系に対する形態的な効果に注目すると、これらを以下の3つに類型化することができる。

短絡型
S38年<ざしき>と<にかい>を直結していた階段の付け替え。これにより<あらいば>と<にかい>が結ばれるだけなく、<ざしき>と、<あらいば>も<あまえん>を介して結ばれる。S50年<きぶつぐら>の上部を物干し場とし、<あらいば>から直接上がれる階段を設置。

バイパス型
S38年タタキであった<かまくったん(釜戸場)>が、ダイニングとキッチンに改装される。いずれからも土間に出入りできるようになる。S46年家事で焼けた西側借家部分に、廊下状の<ひろえん>を設置し、吉川家の居住スペースを拡張。

外部開放型
S46年<ひろえん>の西側を駐車スペースとし、とおりからの出入りを可能にする。S50年<きぶつぐら>を車庫に改装し、敷地東側の小道に対して開く。

短絡型は上下の系を結び付け、2列の独立性を弱める。バイパス型は迂回路を付加するもので、線形を曖昧にする。外部開放型は外部との接点を新設するものであり、奥行きの方向を変更する。いずれも線形空間の一方向性を曖昧するものであった。
各段階の住まい方のヒアリングにより、昭和初期において勉強、読書、編物等の行為が集中していた<さんじょう>が、S40年以降ほとんど使われなくなることがわかった。冠婚葬祭の都市施設への委譲と、商いに関わる行為の消失によって、用途を失った上下の系の各所に個室が割り当てられる。両義的な場であった<さんじょう>に一時的に割り振られた近代的な諸行為は、その後個室で行われるようになるのである。

こうして、線形空間は解体され、かつて行為を秩序付けていた格式の勾配は微弱なものとなった。コンクリート敷きが、<しもみせ>から順に後方の土間全体へ延長される一方、板敷きであった<みせ>が奥の部屋と同じく畳敷きとされ、床仕上げが揃ってゆくこともこの均質化の過程を象徴的に示している。他事例では土間全体に床を張るケースも多い。
格式の勾配の代りに顕在化してくるのは、動線確保による各室の独立性、そしてキッチン/ダイニング、風呂/脱衣場などの機能的な結びつきであり、これは住居一般の近代化の過程と符号するものである。
繰り返される個別の増改築の結果としての住居に、ある明確な全体像を探るのは意味がないだろう。しかし、重ねられた増改築の痕跡は、時間の層となって住居に深みを与えるもので、そのありようは、住居を構想する上での一つの根源的なイメージたりうると思えるのである。
初出:『READINGS:3 現代住居コンセプション──117のキーワード』(INAX出版)